ごえんびと 第22回 寺野 正樹さん

ごえんびと

第22
遊体法/テラノ式手ぬぐい体操
寺野 正樹 さん

連載コーナー「ごえんびと」
壽徳寺にご縁のあるひと(ごえんびと)にインタビューし、想いを伺いながらご縁を深めます。

第22回は、寺野 正樹さんです。

寺野さんは、自身のオリジナルメソッド【遊体法/テラノ式手ぬぐい体操】を構築し、国内外各地でワークショップを開催されています。「テラノ式手ぬぐい体操」は、手ぬぐいを使った動きを通して、心地よく全身の力を抜き、身体と対話しながら気持ちよさを感じる体操です。

このテラノ式手ぬぐい体操は、内容を凝縮し「お寺の手ぬぐい体操」として、全国各地の寺院で新たな機会がスタートしています。インストラクターは各地の僧侶。壽徳寺住職も寺野さんからご指導いただき、開催準備中です。

寺野さんとじっくりお話したいということから、今回のインタビューとなりました。フリーライターとして活躍されていた寺野さん。紡ぎ出される言葉は、グッとくるものばかりです。

手ぬぐい体操体験前の予習として、寺野さんのインタビューぜひご覧ください。


ヌンチャクと手ぬぐい

―――元々ライターをされていたのですよね。現在の活動につながるきっかけをお聞かせください

 身体のことに目覚めたきっかけっていうのは30歳過ぎてからの話です。大学卒業する頃からライターをやってたんですけれども、20代は不摂生の極みというか、明け方寝て昼過ぎに起きるみたいな感じで、毎日お酒も飲んで、健康のことを考える人はダサいくらいに思ってたんです笑。不摂生がたたって20代にしてぎっくり腰を繰り返し、自分は一生この腰痛持ちで生きていくんだなって思ってました。

 30代に入った頃、ちょっとストレッチでもやっておこうかなって軽い感じで始めて、自分がめちゃくちゃ身体が硬いのにびっくりしました。自己流でも続けていくと身体が少しずつ変わっていくのがわかったんですが、ストレッチやってるけど一体何をしてるんだ、何を伸ばしているんだと思うようになって、その日のうちに本屋の医学書のコーナーに行って解剖図を買って、そこから「身体の世界の旅」が始まったという感じですね。

 

―――遊体法/テラノ式手ぬぐい体操の「手ぬぐい」とはどのように結びついてゆくのでしょうか?

 身体を探求していく中で、ヨガ、解剖学、各種健康法、ダンスとかいろんな出会いがあったんですけれども、古武術が自分の中で目からウロコのコンセプトだったんですよね。いかに脱力し、身体の構造の原理をうまく利用して動いていくか、というのが古武術の一つの着目点だと思うんですけど、その辺がすごく面白くて探求し研究していきました。そうするとブルースリーにたどり着いていくんですよ。僕としてはアクションスターっていうぐらいの認識だったんですけど、身体の構造や動きを探っていくと、「あの人すごい人だな」って思って、そこから自分の中でヌンチャクがすごい道具だってところにたどり着いたんです。
 ヌンチャクって、右左同じ軌道で振らないとぶつかるし、左右均等に使えて、リズム感が悪いとキャッチできないし、柔軟性も養えて、優れた道具であるってわかったんです。それからどこに行くにもヌンチャク持って、会う人会う人に「すごいもん見つけたんだ」って言って、街中でも振り回したりしてました。誰もまともに話聞いてくれなかったですけど・・・笑。

 そんな時に、知り合いの人からもらった手ぬぐいがたまたま家に1本だけあって、ヌンチャクの上に合わせてみたら全く長さが一緒で、ヌンチャクと同じこと全部できるんだっていうのに気づいたんです。ヌンチャクを手ぬぐいに置き換えて、そこから自分なりにどうやったら力が抜けて気持ちよくできるかを探求していったら、端を輪っかにすることに至ります。さらに手ぬぐいの長さを約10センチ長くすると簡単に気持ちよくなり、身体の硬い人とか高齢者とか、老若男女ユニバーサルで気持ちよくできるんだっていうのがわかって。これはすごいものを発見したからぜひともみんなに伝えなきゃいけないって思って、テラノ式手ぬぐい体操っていう名前にして活動を始めた感じですね。

―――「遊体法(ゆうたいほう)」という名前には、どんな意味が込められているのでしょうか

 まず身体の遊ぶ方法で、楽しむことが基本のコンセプトにあって、遊ぶように身体を乗りこなせるようになれば、もっと自由に、より軽やかに生きていけるんじゃないかっていうところで「遊体」ってところまでは決めたんです。

 その後に、遊体術とか遊体道とかにしようと思ったこともあったんですが「道」だとストイックな感じがするし、「術」にするとハイスペックっていうか難しいイメージがあるかなっていうのもあって、「法」だとメソッドなので、どこでも寄り添えるようなものにできるんじゃないかなというところで、遊体法っていう名前にしました。

 

―――現在「お寺のてぬぐい体操」としても輪が広がってきてますが、いかがですか?

 このテラノ式手ぬぐい体操は、「21世紀のラジオ体操」って僕はイメージしていたので、地域に根差すお寺でできるというのはイメージが実現化したなという感じですね。
 手ぬぐいの端を輪っかにしているのにも、輪廻転生(りんねてんしょう)の思想に繋がる意味があるんです。手ぬぐいに輪っかを作って表だって活動しているのはおそらく僕が最初で、今まで誰もいないと思うんですよ。もし一回自分が死んで、またこの世の中に人間として生まれかわれるとしたら、未来の人たちが手ぬぐいに輪っかを作って体操してる姿を見て、生まれ変わりの僕は何か思い出すのかなって、そんな未来への仕掛けをしてるんですね。ちょっとした自分だけのロマンチシズムというか。そういう意味も、この手ぬぐいの輪っかにはあるんです。

不安と虚しさとの付き合い方

―――お話の中に「身体の世界の旅」「身体を乗りこなす」など、わかりやすくキャッチーなキーワードが出てきますね

 ありがとうございます。その辺はずっとライターをしてきて、言葉を磨いてきたおかげだなと思いますね。いわゆる先生やインストラクターと呼ばれる方であれば、頑張ってとか、克服していきましょう、とか言うことが多いと思うのですが、最終的には言霊というか、言葉のバイブレーションが大事だと思います。響きのいい、いい意味での耳障りのいい言葉を使うと、身体の水が反応していくと思うんです。
 僕はワークショップの時でも否定的なワードは基本的に使わないようにしています。自分が発する言葉が、自分に一番響いてるわけですから、いい言葉というか、気持ちのいいワードを使っています。「身体を乗りこなす」という言葉も別にマウントしてるわけでもなく、流れに乗っていくという感じです。遊体法の遊ぶようにっていうことも、楽しい感じのイメージはみんなわかっていても、うまく言葉として表現できていない。でも僕はライターとして言葉を磨き続けてきた分、伝わりやすい表現としてみなさんの心に届いているのかなと自分で分析してますね。

 

―――ライター時代は耳障りのいい言葉だけを使うことはできないですよね?

 大げさに言えば、自分の書いたことで僕の知らない誰かに影響を与えられるっていうところが、ライターとして一つの魅力だったわけです。ペンは剣よりも強しじゃないですけど、世の中に何かを問いかけられるんじゃないかと思ってライターを始めていたわけですけど、30代ぐらいに入ってくると、暗闇に向かって吠えてるみたいな感じがして、自分の中で虚しさが凄くあったんですよね。こんな文章を書いても誰が受け取ったかもわからないし、自分は何のためにこれをやってるんだっていう虚しさがあったんです。

 だけれど身体の事に関わって、体操や整体もするようになって、目の前の人が本当に顔色や表情が変わって「気持ちよくなりました。ありがとうございます」って言ってもらえて、自分のやりたいことをやって相手が喜んでくれるっていう。その感謝の循環が生まれて、今までと全く違う喜びを味わえたっていうのは、僕自身がすごく救われた部分でもあったんです。

 表現の仕方一つで受け取り方とか、印象って全然変わると思うんですけど、今までライターをやってきたおかげで、言葉のチョイスとか、その文章の構成力みたいなのが自然と身に付いてたから、相手にも伝わりやすいのかなと思います。自分がライターとしてやってきたことが意味があるのかって疑ってたこともありますが、今の為にやってきたのかなと繋がって、全て無駄がないなって実感しましたね。

―――虚しさを感じてらっしゃったんですね

 ライターの時は不安しかなかったですね。どこまでいっても満たされないみたいな。今でも不安や虚しさも全くないといえば嘘になりますが、それこそ仏教的な思想じゃないですけど、そういう感情はなくならないんだってことがわかれば、そこに長時間とどまらないで済むようにするとか、喜びも悲しみも永遠には続かないということをわかれば処置の仕方も変わってきますよね。そういう時には身体に緊張が出てくるので、その緊張を解きほぐすことで心が少しほどけてくるというか、そのあたりも体感としてわかってるので、この虚しさとか不安とかっていうのも、今はそれなりにお付き合いできていけてるようになったなという感じですね。

 

―――うまく付き合えるようになったのは身体と向き合ってきたからですか

 間違いないです。周り見ると、もうみんな肉体を置き去りにして、心のことにしか目が向いてないなって思うんですよ。いくら心が宇宙と繋がったって、手を伸ばすことが出来なければ目の前のコップを取って自分で喉の渇きも潤せないですよね。不安があったとしても、身体が大丈夫なんだっていうことが自信や安心に繋がると思うんですよね。でもその感覚も実際に自分の身体で体感してみないと無理ですよね。だからこそ手ぬぐいで心地よさを感じていくのが近道だって自分の中で確信があるので、僕は手ぬぐい体操をやっているという感じですね。

生命の本質と未来への投資

―――心地よさを感じることは生きている限り誰でもできることですよね

 いや本当に。それが未来に対する最大の投資なんじゃないかなと思います。最後までできる限り、自分の足で立って歩いて動ける身体を育てていくっていうのは「未来への投資」になっていくと思います。老後のためにお金が必要だから貯めていくとか言っても、身体が動かなかったら何の意味もないし、この手ぬぐいを使ってやっていくってことは、未来への投資になっていくし、最終的には「死に方のデザイン」になっていくと思うんですよね。

 自分の理想としては、身体が動くうちは、心地よく、しなやかに柔らかく動いていくことを目的としていていますが、もし怪我をしていたとしても、怪我していない部分でどう動いていくのか、怪我してる部分も、少しでも動ける範囲があるのかどうか探っていくっていうことも新しいものの見方になっていくと思います。最終的に寝たきりになったとしても、その身体の中で気持ちいいところを探しに行くっていう、ポジティブな意識を育てることに繋がっていくと思います。普通にただトレーニングしましょうとか、動けるようにしましょうっていうと、動けなくなったらそれでおしまいなのかって思いますが、僕はそうだとは思ってなくて、たとえ動けなくても変わらないところはあるし、気持ちよさを探していくという訓練が、寝たきりになっても、絶対に通用すると思っていますね。

 

――――「未来への投資」「死に方のデザイン」という言葉も心に刺さります

 仏教で説く、誰もが逃れられない苦しみである「生老病死」の中で、病という部分だけは自分で処理できる苦しみでもあると思うんです。生きていくこと、老いていくこと、死ぬことは避けて通れないですけど、病の部分だけは自分で決着がつけられる悩みですよね。たとえ病になったとしても、もう駄目なんだと思うんじゃなくて、その中でも何かできるんだって、自分の命に対して前向きに決着がつけられるようになれば、相当ポジティブに生きていけるようになると思うんですよ。それには肉体に対する意識の気づきが必要だと思うし、そこに気づけるかどうかで脳みそにクリエイティブな余地ができると思うんですよね。

 実は、僕の父は今介護施設に入っています。退職後は旅行とか散歩にもでかけてたのですが、コロナで外にも出なくなって、元々アクティブな人ではなかったこともあり、ずっと家の中でボーっとしてて、家事も一切しないし、楽しみを奪われて身体活動がなくなって、たった一年で急激に状態が進行していったんですよね。そういう状況を間近で見てると、身体活動やクリエイティブな思考、この二点が無くなった時点で、人はあっという間に朽ちていくんだなって思いましたね。だから、やっぱり肉体活動をしながら、ワクワクできる楽しいと思えるようなことを人生の中で見つけておくことは大事で、これがないと、年老いた時に早いんだなって思ってます。自分の身体で、身体の中で遊べる遊び、これって死の直前まで遊び続けていけて、道具も何もいらない最高の遊びになるんですよ。

 仕事をリタイヤされてから、山登りとかジョギングとかやってる人って結構多いと思うんですけど、そういう趣味だって最終的には歩けなくなったら引退しますよね。囲碁とか将棋とか読書だったら、かなり長く続けられるかもしれない。でも目が悪くなったりとか、頭も働かなくなってくると頭を使う遊びもできなくなっていく。そうなると、どんどん楽しみが奪われていくじゃないですか。その時に最後に何が残るかっていうと自分の肉体の中で遊ぶっていう、この遊びだと思うんです。だから一つの趣味として身体を楽しむ、身体を遊ぶっていう趣味を一つ持っておくと、老後のデザインって相当変わっていくんじゃないかなって思ってるんですよね。こういう話は、普段なかなか話せないんで、ちょっと嬉しいです。

 

――私もこういうお話を聴くことができて嬉しいですし楽しいです。楽しいとか喜びを持つことは、なににおいても大事ですよね

 生命の本質として、やっぱり基本的には喜びよりも恐怖が先にあると思うんです。死に対する恐怖っていうか、命が脅かされる恐怖、そこから逃れるために人間は文明を発達させてきた。だけど現在、その恐怖の根源を忘れてしまってると思うんです。文明が発達して、なかなか死ななくなったから、死ぬっていう恐怖をどっかに忘れて、よりよく生きることだけに欲が向き始めている。「死」という本当の恐怖の根源を忘れて、何か足りないものに対して目を向けて、そこに恐怖を持つようになってきた。だから恐怖の本質をみんな見失って、不安で怖いから何かを付け足そうとして、いつまでたっても満足できないっていう状況なんじゃないかなって思うんです。
 その恐怖に決着つけられるようになるには、やっぱりこの生命の本質に触れることであり、肉体であり、そのことで相当軽減されると思うんですね。生命の本質に触れる事は、恐怖から逃れることだけじゃなく、喜びを感じることができるから、よりよく生きていくこと、前向きに生きていくことに繋がってきたと思うんです。今の世の中は、情報ばかりに支配されて自分の感覚を忘れて、周りと比べてどうだっていうところでしか判断できてないから、なんか薄っぺらい生き方になってるんじゃないかなって思います。

 

――誰でも最期までよりよく生きてゆきたいですよね

 そうですね。急激にトレーニングを短時間でやって身体を仕上げるわけではなくて、心地よさを深め続けていく。昨日よりも今日気持ちいいとこがあったとか、去年の今頃よりも今の方が身体が調子がいいとか、年老いてできなくなったことがあったとしても、自分の心地よさがあれば、それが常にピークだから、心や仕事に対しての恐怖というのが減っていくと思ってます。

 人生を山登りとか坂道を登っていることに例えれば、緩やかな坂をずっと登り続けて、一歩でも前に出れば、結局その一歩が前へ出た今日が自分の人生の中でのピークにいることですよね。今が一番高いところにいるから、もし今日死んだとしても、今日の自分が一番人生の中で高いところまで登ってきたから仕方がないと思える。けれども、明日も生きていれば、もう一歩前に行くから今日より高いところまで行ける。だから常に人生のピークに居続けていられるっていう。昨日よりも今日が自分がいいと思えれば、今日死んでも後悔がないなって。でも明日まで生きてれば、もうちょっと良くなるかなっていうことの繰り返しだなって思っています。

 僕は身体のことをやり始めて、今が一番身体が動くっていう状態がもうここ十数年続いてるんですよね。今がピークになるように自分を仕向けていく。そこには楽しいかどうか、気持ちいいかどうかっていうところと、それを見つける癖を育てていくと、自然と導かれていく。アンテナを磨き続けていくと、もし身体が動かなくなったとしても気持ちよさを見つける癖が育っていれば、自分が納得しできる心を育てられるようになっていくと思ってるんです。

心地よさ、気持ちよさ

――その心地よさや気持ちよさって、先ほどお話されていた、不安や恐怖を穴埋めしたり、付けたしするような、一時の快楽とか現実逃避ではなく、本質を見つめた先に味わえる喜びや心地良さ、ということですかね。

 「心地いい」と「気持ちいい」って、ちょっと違うと思うんですよね。心地いいっていうのは「心の有り様」。気持ちいいっていうのは、遊体法で言えば肉体が気持ちいいかどうかです。肉体が気持ちいい状態でないのに、心地いいってっていうことは、これ逃げだと思うんです。痛いのに、痛くないです気持ちいいですって強がって言ってるのと同じ状態。心は嘘つきますけど、生命そのものは嘘つかないから、だから本当に身体の中の細胞が喜んでることが気持ちいいってことです。

 さらに言えば、気持ちよさと温かさの二点。気持ちよくて温かい状態の肉体がいたら、生命には別状がないってことだから、不安の一番の根源である死はそこにはない。あとはもう喜んでいいんですよ。でもみんな欲が深いから、気持ち良くて温かいだけじゃ満足できなくて、もっと何かが欲しいって思ってしまう。でも気持ちよくて暖かいっていうその声を聴くためにも身体を磨くことも必要で、そこの声を聞き取れないってことは、自分で勝手に心地よいと思いこませて、自分をだましてる人がすごく多いなって思いますね。

――頭で理解したつもりで、肚(はら)で納得して生きている方が少ないように感じます

 本当にそうだと思います。みんな多かれ少なかれそういう体験をしてるはずなのに忘れてしまってたりとか、信じてないみたいな感じだなって。僕もいろいろ体験して来ましたが、全財産盗まれたとか、笑、でもやっぱり全部失ってそれ以上ものが入ってくるみたいなこととか、一度空っぽになってみないとわからないこととか、実体験がなかったらここまで力強く言えないのかもしれないって思います。頭で頑張って身体を鍛えるのではなく、身体の力を抜くことでしか到達できない世界があること、気持ちよくて楽しい発見にみなさんに出会っていただきたいなと思います。

 

――新たに考えてらっしゃることやこれからについてお聞かせください

 遊体法のインストラクターは僕以外に2人だけいるのですが、将来的には街に1人ぐらいいるぐらいのイメージで、これからは教える人も育ててゆきたいですね。遊体法や手ぬぐい体操は、どの場面でも利用できると思うんですよ、子どもでも、お年寄りでも、リハビリするような人でも、アスリートでも、アーティストも、セルフケアの面でも楽に使えるわけです。

 自転車に乗りこなすような感覚で、続けてゆくとなんとなくわかってくるので、自分の身体と会話しながら、それを深めていくと面白い感じだと思うんですよね。より楽になっていくという感じです。さっきお話したように、気持ちよくて温かい状態を感じるには、この手ぬぐいがそこの鍵を開けてくれるんじゃないかなって思っているので、その感覚をぜひみなさんに味わっていただきたいですね。

――ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします

 

住職自身、手ぬぐい体操を体験し、知らず知らずのうちに身体に力が入っていたこと、身体の強張りを解くのは難しいけれど、気持ちいいことを実感しました。

今回寺野さんとじっくりお話を伺う中で、心に響くキーワードがたくさん出てきました。その中でも「心は嘘つくけど、身体は嘘つかない」という言葉はドキッといたしました。本当にそうですよね。

また、からだとこころは一体であり、からだを解すことがこころを解す入口であると改めて感じる時間でもありました。インタビューの中でも出ていますが、手ぬぐい体操の肝は、力を抜くこと、気持ち良さを感じること。そのことで気づく喜びや楽しさは生きる力に繋がり、揺るぎないものになると感じています。

壽徳寺での開催は、来春以降になるかと思いますが、開催時にはみなさまぜひ体感しにいらしてください。

 

*インタビュー・文 松村妙仁
*2022年12月1日 オンラインにてインタビュー

 


寺野 正樹 さん プロフィール

寺野正樹(Masaki “Macky” Terano)
1974年生まれ。30代から自身の腰痛改善を機に「身体とこころ」を探求するかで、手ぬぐいを使うと「脱力感覚」が容易に得られることを発見。2008年からオリジナルメソッド【遊体法/テラノ式手ぬぐい体操】として、国内外各地でワークショップを開催する。同じ頃より中医学をベースとした経絡整体も学び施術家としても活動する。

遊体法ホームページ 
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