ごえんびと 第15回

ごえんびと

第15
一般社団法人 ふくしま連携復興センター 代表理事
天野 和彦さん

天野和彦さん

Jack天野として音楽活動もされてます

連載コーナー「ごえんびと」
壽徳寺にご縁のあるひと(ごえんびと)にインタビューし、想いを伺いながらご縁を深めます。

第15回は、天野和彦さんです。
天野さんとのご縁は、天野さんが開発リーダーとして携わっている、防災教育教材「さすけなぶる」のファシリテーター養成講座に住職が参加したのがきっかけです。養成講座を受講する中で感じる教材に込められた深い想い、天野さんの活動の源をお伺いしたいと思い、今回のインタビューとなりました。あえて学生時代や教員時代のお話を中心にインタビューしております。他ではあまりお話されていない内容なのではないでしょうか?ぜひご覧ください。


教員になるきっかけ

―――以前は特別支援学校の教員をされていたのですよね?

はい。仙台の大学に進学し、卒業後に特別支援学校の教員として福島に戻りました。初任地は石川町にある特別支援学校です。

―――教員になるきっかけをお聞かせください

 そうですね、今考えると、いろんなきっかけが積み重なってますが、まずは中学高校の時の話をしますね。
 僕は権力が嫌いだったんですよ。中学時代の一番の権力っていうのは教師ですよね。当時は明確な思想みたいなものはなかったけど、まぁ反抗ですよ。意図的に毎日遅刻をする。先生から注意を受けるけど僕は無視をする。また注意を受けても反抗的な態度を取る。そんな毎日を繰り返して、中学三年になって高校受験を迎え、受験に失敗するんですね。
 今でも覚えてるけど、3月の半ば、晴れた日だったと思う。泣きながらね、中学校に行って「先生落ちました」って言ったら、「俺の言うことを聞かなかったからだ」って担任から言われるわけです。違う言葉が返ってくるのかと思ったら、そんな言葉でしたからね。信じられる教師なんていないって思ってましたよね。

―――その後はどうされたのですか?

 浪人は絶対駄目だって親に言われて、嫌々別の高校に入学することになります。
 中学の教師とのこともあるし、嫌々入学しているし、とにかく学校というものが嫌いで、教師を信頼してなくって。学ランの裏側は虎の刺繍、ボンタンっていう幅が広いズボン履いて学校に行って、必修クラブがあっても窓から抜け出して帰るとか、反抗的な毎日を送っていたわけです。心の中がずっとモヤモヤしてて、中学の時から何も中身は変わらず高校に行ってましたね。

―――その状況はずっと続いたのでしょうか?

 その学校の中で基礎学力講座っていうのがあったんです。今から思うと先進的な取り組みだと思うけど、学習についていけていない生徒のためにクラスや学年関係なく習熟度別集団を作って、理解するまで教えてくれてたんですね。僕はそのクラスには入ってなかったのだけど、いつも一緒に学校通ってた仲のいい友達がそのクラスに入っていて、ずっと居残りしてるわけです。ホームルームが終わって掃除の時間が終わってもまだ問題が解けなくて、早く一緒に当時たまり場にしていたジャズ喫茶に遊びに行きたいのに帰れないという(笑)

 「先生、いくら教えてもわからないのはどうしようもないんだから、教えるだけ無駄だよ」なんて心でつぶやいていました。ところが先生に呼ばれて顔をあげてみると、泣いていたんですよね。「俺の教え方が悪いのかな」って。
 その情景を今思い出しても泣きそうになるけど、俺たちみたいな奴のために泣く人がいるんだって思ってね。中学の時は「俺の言うこと聞かないからだ」って担任に言われて、高校では「俺の教え方が悪いのかな」って考えてくれる先生がいると。それがちょっとショックだったんですね、僕の中で、第一のショックっていうか。だからといって何か生活が変わるわけではなくて、そのまま日々が過ぎていくわけです。

―――また違ったショックがあったんですか?

 高校二年の時、生徒会の副会長をやっていたのですが、月に一回、市内の生徒会の役員が集まる会議があったんです。でも僕は遊び優先でサボったわけですよ。真面目な生徒会長は行ったんですが、その時に他高校の生徒から「どうせ何もわからないのだから、馬鹿にされたくなかったら発言しないでください。黙ってください」って言われたと聞いて・・・。
 こんなこと言われたら黙ってはいられないですよね。仲間十人くらいで放課後にその学校に乗り込んで、言った相手を呼び出して説教ですよ。暴力はしてませんよ。「成績が10の人間と成績が1の人間と何が違うんだ 」って。「土下座して謝れ」って。相手からの謝罪を受けて、意気揚揚と学校へ帰るわけです。戻らなきゃいいのに、学校に帰るわけですよ、馬鹿だから(笑)

 学校に戻ると柔道部の顧問だった教頭先生が校門で待ち構えていて、僕含めて首謀者五人ぐらい職員室に連れていかれるんですね。事実確認をされて。今日は絶対ビンタだなと確信をするわけです。しかも往復ビンタだなって。(笑)
 そしたら、その教頭先生は「よくやった」って「君たちは自分たちの名誉を守るために、行ったんだな」「後のことは、心配しなくていい」って言われて、これが第二のショックで、今思うと自分の中で何かが変わったきっかけだったんだろうなと思います。

―――そこから進路に影響していくのでしょうか?

 高校三年になって、担任の先生と進路について面談をするわけです。漠然と大学行こうかなということと、「差別」に興味あるって話しをして。同じ人として生まれてきてるのに、貧乏な人とお金持ちの人もいて、幸せだと思う人と、幸せじゃない人がいるって変だと思う。みたいなこと言ったと思うんです。そうすると先生が、「社会福祉って知ってるか」って。いまでも名言だと思うけど、「社会福祉っていうのは、弱い人たちのことを守るための学問だ」って言ったんですね。
 その言葉聞いて即座に決意しましたね。福祉の大学行くって。しかも仙台に大学があるなら、好きな従妹が仙台に住んでるから、いつも会えるようになるしラッキー!って。馬鹿でしょ~。本当にね(笑)

学生への講義の様子

―――どちらも大きな理由ですよね(笑)そこから福祉に繋がってくるんですね。

 東北福祉大学に進学したんですが、当時は学生の半分以上が、社会人経験者だったんです。老健施設や児童自立支援施設で働くとか、みんな具体的な目標があってね。そんな中で自分は、差別にちょっと興味がありますぐらいのことしか言えなくて、みんなすごいなと思いましたね。
 でも、そんなことも忘れてバンドに夢中でした。高校三年の終わりぐらいからギターをはじめて、モテたい一心で(笑)ギターを弾けるようになれば必ずモテるんだ、青春のパスポートを手に入れるんだって(笑)。結局、差別のことも全部すっかり忘れて、日中は学校行かずに夕方になって学食でご飯食べて、サークル棟に行くっていう生活を繰り返してましたね。

―――そのまま学生生活を満喫してゆくのでしょうか?

 大学二年の時、貧困に関する勉強会に参加する機会があったんですね。
ちょうどその年(1980年)、災害級の豪雪だったんだけど、生活保護を受給されている高齢の方が布団の中で凍死したって話を聞いて。寒さに耐え切れず毛布の申請をして、届くのを待っている間に、凍死してしまったと聞いて、やりきれなくて、同じ人間なのにって。それが三つ目のショックだったかな。

―――ここから勉強にも本腰を入れるようになった?

 そうですね。教育系のサークルに入ったり、学祭の実行委員長やったりなど、とにかくいろいろ活動をやってました。
 大学三年生になると母校の高校に教育実習にも行って、また新たな気づきがあって。自分が学生だった時にはわからなかったけれど、放課後の職員室では学年やクラス関係なく、気になる生徒の話をしてて。真摯に生徒に向き合う先生方に感動して、自分の高校の教師になろうと思って大学に帰るわけです。

 ところが大学に戻って友達に教育実習と進路の事を話すと、「俺たちは福祉を学びに来たんだから、教育の道の選択は考えられない」って言われて。わずか21歳ぐらいですからね、悩むわけです、悶々と。どうしたらいいのかなって。そして大学四年の時に、特別支援学校の教育実習で、猪苗代の学校に行って感動を受けたんですね。ここには、福祉と教育の両方がある。これしかないって。それで、教員採用試験を受けるようになります。

 

教育と福祉の中で

―――そして支援学校での教員として

 最初は石川町の学校に行って、その後須賀川の学校で訪問教育に携わるようになります。学校に来ることが困難な重度の障がいがある子たちのために、教材とか一式持って教師がその子の家に出向く教育です。そういう日々を重ねてゆく中で、障がいを持ったあの子たちの「幸せ」ってなにか、ということを考えはじめます。いのちとは何か、生きるとは一体何か、教育とは、権利とは、人権とは、そもそも論ですよね。そういうことを本気で考えながら、教職員組合の活動もやり、子ども達の学びの場や遊びの場を保障するための活動したり、忙しい毎日でしたね。

教員時代

――そのまま教員を続けてゆくわけではないのですよね?

 35,36歳くらいかな、中堅の職員になり、要は一番バリバリ働ける年齢。そんな時期に、なんとなく学校のノウハウが全部わかったような気がしていたんです。でも一方で教育っていうのはそんなに簡単にわかるはずがないんだって悩んでいて。
 そこで幼児教育とか社会教育とか別の場所で学びたいなって。これまで障がいを持った子どもたちを対象としてやってきて、あの子たちの幸せを考えてきた。一方で、学校教育以外の教育全部が社会教育であって、例えば地域の人たち向けの学びの場や、さまざまな人たちを対象にした教育ですよね。そこに身を置くことによって、教育がわかった気になっている自分の概念を壊せるんじゃないか、そして新たな価値に気付くことが大事だろうというふうに思って、社会教育に進もうと思うようになるんですね。

――その後は社会教育主事としてスタートされたのですね?

 学校を離れ、翌年から社会教育主事として大玉村の教育委員会へ赴任します。本当に楽しかったですね。
 毎月二回くらい、幼稚園や保育所で『天野さんと遊ぼう会』というのをやっていて。子どもたちと一緒に遊んで歌を歌ったりとか、工作したりして。コスプレ好きだから、白衣やつなぎ着て変装もして(笑)それが終わると保護者対象で、家庭教育の話をしたり、また別の日には高齢者の方への学びの場で話したり、そんなことをしながら気づくんです。

「みんな幸せになりたいんだな」って。

 就学前の子どもたちも、あの子たちなりの幸せを求めているし、目の前のお年寄りの方も、やっぱり幸せになりたいと思ってる。そういえば俺も幸せになりたいんだって。障がいを持った子どもたちの幸せってなんだろうって考えていたけど、誰でもみんな幸せになりたいんだなっていう、そんな本当に単純なことに気づいたんです。人は、幸せになるために生まれてきたんだなって。自分の中で揺るぎない確信に変わった感覚でしたね。

天野さんと遊ぼう会

紙芝居をしている様子

――また新たな場所に身を置くんですね?

 その後は、県庁の教育委員会で社会教育の仕事をし、いよいよ学校に戻るかなと思ったら、今度は保健福祉部に配属されて二本松市にある男女共生センターへ出向します。そこでもまた気づきがあって、男女共同参画っていうのも人権の問題なんだって。障がい者問題と同じなんだって。
 そうしているうちに、東日本大震災が起きて、ビッグパレットの避難所運営に入って。行ってみると、避難所での混とんとした風景ってのは、人権の問題の塊なんだなって。災害っていうのは、まさに人権の問題そのものなんだって気づくわけです。

 

一本の道

――差別とか人権という、スタートに繋がるのですね?

 あの避難所に行って、僕はこのために生まれてきたのかと思いました。差別っていうことと向き合うため、その宿命を持って生まれてきたのかって思いましたね。
 今までの仕事上で築いてきたネットワークや知恵が、避難されている方たちの人権を守るために、少しでも役に立つことができたとしたら、この時のために経験を積んできたのかなと。
 そんなことを思って、気づいたらもう11年です。
 「さすけなぶる」を広げてゆくのも自分一人では駄目だし、仲間を作っていくしかないって思って研究会立ち上げて、教材作って、養成講座開き、妙仁さん達にも受講してもらって今こうして繋がっているわけですよね。

――特別支援学校でのご経験も、社会教育も「さすけなぶる」も全部繋がっているように感じます

 そうですね。僕の中では一本の道ですね。
 障がい者教育に一生を捧げた近藤益雄(こんどう えきお)先生の言葉に「この道は一筋。遥かなれども迷うことなし」という言葉があります。近藤先生は、自宅に「のぎく寮」という施設を開設して、子どもたちと生活を共にしながら障がい者の教育にあたられました。僕はとてもじゃないけどそんなふうにはなれないけど、教員時代も社会教育主事の仕事も、今の活動も、迷いながらでも道は繋がっているなと思います。
 50半ば過ぎぐらいからかな、こうやって一生って過ぎていくんだなって思いましたね。これはねもうね、この言葉以外のものでは語れないです。生きてくると、その人それぞれが気づく何かがあって、それは一代限りの知恵なんだよね、その人のそれぞれの。その人にしかわからない知恵があると思うんです。

 生かされてきた、生かされているっていう感覚というのは、最近わかるようになった気がしてます。一人の人間の力なんて、僕の力なんて大したもんじゃないけど、人は何かしらのために生まれてきたんだよなっていうふうには思いますね。本当に不思議ですよね。
 今も少しずつ誰かにバトンを渡して行く準備もしてますし、そうやってまた次から次にバトンの連鎖なんだなって。教員からはじまって、子どもたちにはまた戻ってくるからねって言ったけど、結果的には教員を辞めて、福島大学で教員になって、今にして思うと、やっぱり人のために生きてるのかなっていうふうに思うし、やっぱり”いのち”って何かなってということも考えます。

――天野さんにとって幸せってなんでしょう?

生きていて、生まれてきてよかったって思えることかな。
そう。生まれてきてよかったって思えること。
「幸せ」ってみんながそう思ってほしいですね。僕も幸せでありたいです。

講義中の様子

 

大和田新さんとの須賀川市のコミュニティFMで共演中(毎月第二水曜15時~)

――大切なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします


 「さすけなぶる」は避難所で実際に起きた事例から学ぶ教材ですが、防災や避難所運営に限らず、日常生活においても大切な視点やあり方を考え育む教材であると思っています。教材の中で軸になっているのはそれぞれの価値観や人権であり、コミュニケーション。それは天野さんが積み重ねてこられたご経験が影響していると感じるインタビューでした。今回天野さんご自身のさまざまな経験や想い、現在の活動へ繋がる源泉を聞かせていただき、私自身も新たな気づきや想いが深まる時間でした。
 自分以外の物語を聞く、触れる時間をいただく機会があることは本当に有難く、幸せだなと改めて感じました。ありがとうございます。「さすけなぶる」も壽徳寺でいつか開催できればと思っています。その時をお楽しみ。

*インタビュー・文 松村妙仁
*2022年4月28日 壽徳寺にてインタビュー

インタビュー記事 PDF版のダウンロードはこちらから


「さすけなぶる」とは・・・

東日本大震災・ふくしまの教訓を避難所運営で実際に起きた問題を解決していきながら学ぶワークショップ型防災教育ツール。広域災害時に避難所で起こる「リアル」を理解し、想定外の事態に対しても、みなさんの人生経験を生かして、被災者の幸せを最優先とした柔軟な対応の視点を身につけて頂くことを目的とした意思決定シミュレーションゲームです。
「さすけなぶる」は、福島県の方言である「さすけねぇ」と持続可能であるさまを意味する「sustainable(サスティナブル)」を組み合わせた造語です。「さすけねぇ」は、福島弁で「心配ない・問題ない」という意味。心配がない状態を持続させることを意味しています。
(さすけなぶる公式ホームページより抜粋)

さすけなぶる 公式ホームページ
http://www.sasuke-nable.com/


天野 和彦 (あまの かずひこ)さん プロフィール

福島県会津若松市出身 1959年4月 生まれ
福島大学大学院 地域政策科学研究科 修了
一般社団法人 ふくしま連携復興センター 代表理事
福島大学 地域未来デザインセンター客員教授 (災害社会学)

特別支援学校の教員として15年。その後、県教育委員会や県男女共生センターなどで社会教育の仕事を15年。2011年3月11日の東日本大震災、東京電力福島第一原発事故に際し、約2,500人の被災者を受け入れ、福島県内最大規模だった「ビッグパレットふくしま避難所」の県庁運営支援チーム責任者として運営に携わる。現在、福島大学地域未来デザインセンター客員教授、一般社団法人ふくしま連携復興センター代表理事として被災者の生活再建や震災関連死などの調査研究を行うとともに、コミュニティ形成のための支援・研究活動を行っている。防災教育教材「さすけなぶる」の開発リーダー。

主な活動歴
・学会
日本災害復興学会、日本社会教育学会、日本教育学会、日本公民館学会
・委員等
避難所における良好な生活環境の確保に関する検討会委員(内閣府)2012
避難所における良好な生活環境の確保に関する検討会「福祉避難所」WG委員(内閣府)2015
・主な著書等
生きている生きてゆくービッグパレットふくしま避難所記2011
福島大学の支援知をもとにしたテキスト災害復興支援学 2014
『福島復興学』八朔社(2018年刊)『福島復興学Ⅱ』八朔社(2021年3月刊) など


*須賀川地域コミュニティFM「ウルトラFM」にて
毎月第二水曜15:00~生放送「新とjackの言わなきゃソンソン」パーソナリティ
(第四水曜15:00~再放送)
ご視聴はこちらから▶ https://www.jcbasimul.com/radio/1223/